クチポール社
代表 デイビッド・リベイロの語る
クチポール社の歴史

クチポールのはじまり

私の祖父は職人でした。
ドイツのゾーリンゲン地方やフランスのティエール地方のように、ポルトガルではギマランイスという地域がカトラリー作りで有名です。この地方にはたくさんの川が流れていて、その流れを利用して機械を動かしていたので、工場の集まる町になりました。私の祖父はこのギマランイスの地で、数人の職人が働いている小さな工場を持っていたのです。
当時はカトラリー作りはフォークを作ることを意味していました。一般的にナイフは使われていません。必要があればフォークで切ってさして食べていました。スプーンも使いません。小さな器で口をつけてすすればよかったのですから。(ちなみにこの習慣を変えたのはフランス料理が入ってきてからです。)
そういう時代に祖父はカトラリー、すなわちフォークを作っていました。
そのあとを継ぎ、社名を「Cutipol(クチポール)」にしたのが私の父です。60年代初めのことです。父は輸出を視野にいれたので、海外の人も発音しやすく、特徴を覚えやすいように、クチポールと名付けました。Cutは「カトラリー」を、POで「ポルトガル」、Lは「会社」の意味です。

母、アリス・マルケスの活躍

会社の名前と方向性を考えたのは父ですが、会社自体を大きく変えたのは私の母、アリスです。母は60年代になって入社しました。それからの母の働きっぷりと言ったら、、私の母こそがいまのクチポールを作ったといっても過言ではありません。クラシカルなラインナップのなかに、モダンなデザインを取り入れたのは彼女です。実際カトラリー作りの盛んなポルトガルで、初めてモダンなデザインを作ったのも、ゴールドのめっきを始めたのも母の取り組みなのです。

彼女はクチポールのボスになりました。父は本が好きでおとなしい営業マンでしたが、母は父とはまったく違うエネルギーをもって取り組み、工場全体のボスになったのです。彼女は毎日工場に通い、工員全員に気を配り、みんなにクッキーやスープをふるまっていました。もっとモダンなラインアップをもつよう提案し、製品のクオリティの向上に心を砕き、全てをマネージメントをしていきました。
人々は母のことを愛情を込めて「チキンマザー」と呼んでいましたが、それというのも彼女は私たち9人の子供を産み育てたからです。彼女は偉大な母であり、女性であり、そしてビジネスパーソンでした。子ども9人にご飯を食べさせ、毎日会社に通い、パッケージや品質管理や、検品やデザイン、本当に何から何までやっていました。当時60人いた従業員全員のこともよく知っていて、みんなからも好かれていました。みんなにとってのお母さんみたいな存在でした。彼女にとって一番大事なのは働く人たちでしたから、みんなと強い関係を結んでいました。

私たちの時代とこれから

次の大きな転機は80年代に兄や私が会社に入ったことです。兄のジュゼは昔から絵や工作が得意だったので、自然とデザイナーになっていきました。といっても、本人は建築家になりたいと考えていた時期もあるようで、このショールームはジュゼが設計したんですよ。私は人と接するのが得意なので、海外の展示会にも積極的に出かけて販路を作りました。海外進出という父の目的が実現し始めたのです。レストラン、ホテル、北欧、アメリカ、韓国、日本、アラブ諸国、、、どんどん取引先が増えていきました。
姉のポーラは財務を、サラはパッケージデザインから在庫管理まで担い、ヴァニアが店舗を経営しています。私たち兄弟姉妹が力を併せてクチポールを運営してきました。最近たくましくなった甥のジョアオが次の世代をひっぱっていくでしょう。
私たちはこれからも新しい素材や新しいアイデアを形にするリーディングカンパニーになりたいと思っています。実はいまあるプロジェクトを密かに進めているのですが、発表できるのはまだまだ先になりそうです。どうぞ楽しみになさっていてください。